議会も対話になればいいのにな。

いつも思うのだけれど、
議会を見ていると対立構造で、
きっとそれも意味があるからその構造なのだろうけれど、
見ていて胸が痛いことが多い。
どちらかの意見に対して賛成な気持ちで見ていても
そのやりとりでどっちの案も魅力的に見えなくなることが多々。
相手を攻撃し合う(時には意見ではなく相手そのものを)行為は
なんだか胸が痛い。公開で汚い言葉が出続けるのはつらい。

相手の意見を聴く気なんてそもそもないことが
見えてくるからなのだろうな。
信頼関係のない議論って意味があるんだろうかと、
政治素人な私はついつい思ってしまう。

自分の好き嫌いの前に、市民が選んだ候補者であることは
間違いがないわけで、その方の後ろにはその意見に賛成している
市民もいると思ったら、全てがお客様(言い方が正しいかは別として)なはず。
(自分の利益しか考えないで票を入れる人がいるとしても、
それはみんなどこかしら、そうなのだと思うし、否定できることでもない。と
私は思うけれど。)

とはいえ子供のころの学級会からして、
そんな対話や相手の話を聴くということを
教わってきた覚えはない。

私は小学校3年のころからずっと学級委員で
学級会などは議長をやってきたけれど、
ディベートのやり方くらいは習った記憶が片隅にあるが、
それを毎回やるわけでもない中で、
多様な意見を集約する方法は常に多数決。
意見が出揃って、「どれがいいですか〜」でしかない。

いろんなやり方を実践できる場が必要だと感じます。
ディベート、ディスカッション、ブレスト、ダイアログ。
そして傾聴の仕方も含めて。
場に参加する方々が場を信頼して、
参加するお互いを信頼して成立することも多い。

だからこそ、まずはみんなが街を国を良くしたい気持ちは
同じなのだと信頼できるかどうかが大事かも知れない。
それが私利私欲かも知れなくても、自分が幸せになりたい思いは
共通なのかも知れない。

甘いとかゆるいとか対話じゃ何も決まらないと
言われがちですが、未来のことを短期決戦ばかりで
決めてしまうのもどうなんだろうと私は思う。
じっくり対話し続けて決める議題があったっていいのになと思う。

国や市の予算を、自分に置き換えてみるとわかるけれど
未来に投資する予算があったっていいのだけれど、
余裕がないと、焦って目の前のこと(自分のこと)に使ってしまう。

だからこそ共に助け合って、心の余裕を育てて、
対話をし続けるテーマがあってもいいのになと思うわけです。

サロンでの対話会を続けていきたいと心から思っています。
場の結論を出さなくたって、生活や人生が豊かに変化する人を
たくさん見てきているので、解を一つに決めることが全てではないと
私は思っています。

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