夢中になること

もうすぐ5歳になる姪と、
今年3歳になる甥と、
いつも全力で遊んでいるのですが、
子供が何かに熱中したり、夢中になる姿をみて、
自分の子供時代をよく思い出します。

どうしても縄跳びで二重跳びができるようになりたくて
すでにできている友達に毎日毎日、教えてもらうために通い、
毎晩、外が真っ暗になるまで気がつかないくらいの練習をして
跳べた日の喜び。

純粋に「跳びたい」と思い、無邪気に毎日毎日
縄跳びをくるくる回し続ける。

そこには、「跳べないかもしれない」なんて不安もなく、
「練習したくない」という気持ちもなく、
「門限破って怒られる」ということすら忘れ(笑)、
ただただひたすら「跳びたい」という気持ちだけで
夢中になって練習していた私しかいない。

もちろん二重跳びはできるようになったけれど、
大人になって目指した「音楽の道で食べていく」ということは、
「食べられない」不安もなく、「練習したくない」こともなく、
それでも、どうにもプロにはなれなかった。

自分の力不足は感じるが、やりきった自信もあり、
周囲の評価や実際に自分を買ってくれるマーケットがないわけで、
それはそれで仕方がないことだと思えた。

夢は叶わなかったわけだけれど、
夢のおかげでとことん踏ん張れる自分を知り、
好きなことにただひたすら熱中できた時間は、
今の私を支えていると感じられる。

「音楽の道で食べていく」と決めた時、
「音楽が好きだから」という気持ちよりも、
「音楽の道で食べていく」と決めたことに意味があり、
決めたことで、あとは「やる」ことだけという覚悟が持てた。

「二重跳びができるようになりたい」という意思と同じ。
自分の意思を持って、決めてみる。
決めてみて、Tryし続ける。
結果の問題ではない、意思の問題なのだ。

あとは夢中にやるだけ。
決めてやるから、戦略も生まれるし、
工夫も生まれる。
結果がどうであれ、自分の中に、自信や
また別の成果が現れる。

夢を叶えるって「点」ではなくて、
「線」であり「面」だから、
自分の人生の道のどこかで、
価値を持ったり、意味を感じる。

そういう連続性の中にある「今」。
「今」夢中にならないで、いつなるのさ。

今、目の前のことに夢中になってみようよ。
なんだっていいのだ。
勉強でも音楽でもスポーツでも、
友達との時間でもゲームでも、なんでも。

目の前のことをやりきってみようよ。
子どものように。純粋に。

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